埴谷雄高

死んだものはもう帰つてこない。
生きてるものは生きてることしか語らない。

花田清輝よ。この長い歴史のなかには、組織のなかで凄んでみせる革命家もゐるが、また、組織のそとでのんべんだらりとしてゐる革命家もゐるのだ。何処に? 日向ぼつこをしてゐる樽のなかに。蜘蛛の巣のかかつた何処か忘れられた部屋の隅に。そんなものは革命家ではない、と君はいふだらう。まさしく、現在はさうでないらしい。だが、それをきめるのは未来だ。ひとりの人物が革命家であるかないかの判定は、彼が組織の登録票をもつてるか否かでなく、人類の頭蓋のなかで石のやうに硬化してしまつた或る思考法を根こそぎ顛覆してしまふ思考法を打ちだしたか否かにかかつてゐる。一つのきらめきをもつた生産的思考は、ひいては、この自然の、この社会の秩序と制度の変革をやがてもたらす。それは、硬化した思考法を顛覆したひとつの新らしい思考法のもたらした結果、ひとつの強烈な、新鮮な、決定的な理論のもたらした結果である。或る憤激に駆られた行動的な人物は、その手足を使つて、あちこちの壁にぶつかり敲ちまはり、激しい衝撃をこの自然と社会に与へることができるだらう。だが、たとへ彼の労苦が如何に深く苦痛が如何に酷しくとも、彼が彼自身の手足を用ひてゐるかぎり、彼は暴動者たり得るに過ぎない。彼は、革命家ではないのだ。

(「永久革命者の悲哀」)