埴谷雄高

“存在は存在である”といった場合、全存在形式を予覚させず、現在の一存在形式の枠のなかへだけ私達を永劫に縛っておくことしか生じないのですが、我々が生まれると同時に、こうとしか考えられず、こうとしか存在し得なく閉じこめられていること自体がぼくにとって“屈辱”であるという意味なんです。

埴谷インタビュー「薔薇、屈辱、自同律」(『無限の相のもとに』の注 p.138)

 

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