橋本努

一般に、フリーダムとしての自由は文化や経済の領域で語られ、リバティとしての自由は政治や法の領域で語られることが多い。しかし両者は密接に結びついていると同時に、その意味は多義的である。

I・バーリンの有名な分類によれば、自由には「積極的自由」と「消極的自由」がある。積極的自由とは、「~への自由」、すなわち自己支配としての自由であり、これには自己を律する「自律」の意味と、集団によって集団を律する「自治」の意味がある。これに対して「消極的自由」とは、「~からの自由」、すなわち強制からの自由であり、これには他者の干渉からの自由と、自己の内なる強制状態(押さえがたい衝動や、自由を享受する能力の不足)からの自由という意味がある。バーリンはこの二つの自由概念のうち、消極的自由のほうを支持した。なぜなら、「消極的自由」の概念は悪用されにくいのに対して、「積極的自由」の概念は、歴史的にみて、全体主義社会主義の政体における「集団支配の自由」へと転化する危険を伴ってきたからである。

消極的自由の概念には、しかし別の意味が二つある。一つは「あらゆる束縛からの自由」というユートピアな観念であり、E・フロムの名著『自由からの逃走』は、この意味での消極的自由を批判した。フロムによれば、人々は、前近代的とされる諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると今度は、かえって権威者への服従を求めるようになり、歴史的にみれば、そこから全体主義体制が生み出されたのであった。全体主義を防ぐためには、人々が「消極的自由を重荷と感じない社会」を築かなければならない。そこでフロムは、自律や自治としての積極的自由が重視されるべきだと考え、社会主義福祉国家の体制に共感を寄せたのであった。

「自由」という概念にはこの他に、知的先導、解放、貧困の克服、全能感、エゴの克服、放任、規範侵犯、必然性の認識、失うものが何もない状態、非人格的関係の維持とそのためのルールおよび象徴的権威の承認、支配者の流動化、自己の多元化、試行錯誤、複数所属、自己決定、などのさまざまな意味があり、こうした自由を実現するための「条件」(例えば自己責任)もまた自由と呼ばれることがある。自由の対立概念についても、無自覚、抑圧、貧困、疎外、欲深さ、禁止、威圧、独裁、一元性、通俗さ、教条性、保守性、自閉、機械的操作、他者依存、受動的活動、などいろいろある。それゆえ、ある自由を促進すれば、別の自由が制約されることにもなる。しかし自由は、社会関係の中においてはじめて可能になるのであり、「人は生まれながらにして自由である」と言われる場合にも、幼児に戻れば自由になるというのではなく、人間の自発的な社会的活動のうちに、不自由な社会を克服する契機が求められている。

「自由」(Liberty, Freedom)/森村進編『リバタリアニズム読本』

参照:http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Liberty%20Libertarianism%20Reader%202005.htm