ドストエフスキー

いったい人間の利益とやらは、完全に、正確に軽量されているのだろうか?(…)だいたいが諸君は、ぼくの知るかぎり、人間の利益の貸借表を作るのに、統計表や経済学の公式から平均値をとってきたのではなかったか。諸君のいう利益とやらは、要するに、幸福とか、富とか、自由とか、平穏とか、まあ、そういったたぐいのもので、したがって、たとえば、ことさら意識的にこの貸借表に楯つく人間などは、諸君に言わせれば、いや、むろん、ぼくに言わせても同じことだが、頑迷な非開化論者、ないしほんものの狂人ということになるのではないだろうか? ところが、ここにふしぎなことがある。それは、こうした統計学者や、賢人や、人類愛者が、いつもひとつの利益を見落としているのはなぜか、という点である。当然とり入れるべき形での計算にすらとり入れていないが、実をいえば、これは全体の計算を左右するほどのものなのだ。(p.34)

だいたいが人類自身の利益のシステムで全人類を更生させるなどという理論を説くのは、ぼくにいわせれば、たとえば、ボックル(…)あたりの尻馬に乗って、人間は文明によって温和になり、したがって、残虐さを減じて、戦争もしなくなるようになるなどと説くのと、ほとんど選ぶところがない。論理だけからいえば、人間はたしかにそうなるように思われる。しかし、人間というものは、もともとシステムとか抽象的結論にはたいへん弱いもので、自分の論理を正当化するためなら、故意に真実をゆがめて、見ざる、聞かざるをきめこむことも辞さないものなのだ。(…)いったい文明がわれわれのどこを温和にしてくれるというのだ? 文明が人間のうちに作りあげてくれるのは、感覚の多面性だけであり……それ以外には何もありゃしない。ところで、この多面性が発達する結果は、あげく人間が流血のなかに快楽を発見するところまで行きつくかもしれない。いや、現にそういうこともあった。(p.36-37)

現代の人間は、なるほど野蛮時代よりはものをはっきりと見ることを学んだとはいえ、まだまだ理性と科学の指示通りに行動する習性はできていないのだ、と。しかし、にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときがきて、そうなれば古い悪癖のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる。諸君はまた、そのときは人間がわざわざ好き好んで誤りを犯すようなこともなくなり、自分の正常な利益に反した意志をもつ気になど、なろうたってなれはしない、だいいち、その自由がなくなる、と確信しておられる。そればかりか、諸君に言わせれば、そのときには人間が科学に教えられて(ぼくの考えでは、すこし贅沢すぎる話だが)、人間にはもともと意志も気まぐれもありはしない、いや、これまでにもあったためしがなかった、そもそも人間なんて、せいぜいピアノの鍵盤かオルゴールのピンどまりの存在なのだと悟るようになる、というわけだ。いや、それ以上に、この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それは決して人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのずとそうなるだけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる道理である。そのときには、人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、まるで対数表か何かのように、その数も十万八千ほどになり、カレンダーなんぞに書きこまれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科事典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。
そのときこそ――いや、これも諸君の説なのだが――やはり数学的な正確さで計算され、完璧で整備された新しい経済関係がはじまり、およそ問題などというものは、一瞬のうちに消滅してしまう。というのも、いっさいの問題について、ちゃんとその回答が用意されるからである。そのときこそ、例の水晶宮(訳注 十九世紀ロシアの革命的民主主義の思想家チェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』に出てくる未来の社会主義社会)が建つわけだ。(p.38-39)

たとえば、ぼくなどは、もし未来の合理主義一点張りの世のなかに、突如として次のような紳士がひょっくり出現したとしても、いっこうに驚かないつもりである。(…)〈どうです、諸君、この理性万能の世界を、ひと思いに蹴とばして、粉微塵にしてしまったら。なに、それも目的があってのことじゃない。とにかくこの対数表とやらをおっぽりだして、もう一度、ぼくらのおろかな意志どおりの生き方をしてみたいんですよ!〉これもまあいいとしよう。だが、癪なのは、この紳士にかならず追随者が現われる点である。だいたいが人間はそういうふうにできているのだ。しかもこうしたことはすべて、あらためて口にするのも気がひけるほどの、実にくだらない原因から起っている。ほかでもない、人間だれしも、また、いついかなる場合でも、自分の欲するままにこそ行動することを好んできたものであって、けっして理性や利益の命ずるとおりにではなかった、という理由からなのだ。欲するということなら、人間、自分自身の利益に反してだってできるし、ときには、絶対にそうなるしかないことだってある(ここのところは、正真正銘、ぼくの考えだ)。自分自身の自由気ままな恣欲、どんな無茶なものであれ、自分自身の気まぐれ、ときには狂気と選ぶところないまでかきたてられる自分自身の空想――これこそ例の見落とされているもっとも有利な利益であり、これだけはいかなる分類にもあてはまらず、これひとつのために、全システム、全理論がたえず微塵に崩壊する危険にさらされているのだ。だいたいが例の賢者どもは、人間に必要なのは何やら正常で、しかも道徳的な恣欲であるなどという結論を、どこから引張りだしてきたのだろう? 人間に必要なのはつねに合理的で有利な恣欲であるなどと、どうしてそんな想像しかできないのだ? 人間に必要なのは――ただひとつ、自分独自の恣欲である。(p.40-41)

 『地下室の手記』

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