井筒俊彦

一たん分節されて結晶体となった存在は、もしそのものとして固定的、静止的に見られるならば、分節される以前の本源的存在性を露呈するどころか、逆にそれを自己の結晶した形のかげに隠蔽するものである。このような場所では、人は存在を見ずに、ただ存在の夢を見る。
禅はこの覆いを一挙に取りはらうために言語を使用する。言語の意味的志向性によって分節された存在を、瞬間的にもとの非分節の姿に還らせるために分節的言語を逆用するのである。勿論、全然言語を使わないこと――沈黙――によってもそれはなされるし、「喝」という非分節的音声によってなされることもあるが、それは本論文の埒外の問題である。
意味作用が働いている限り――意味作用を失った瞬間に言語記号は記号としての生命を失って死物と化す――個々の語は現実のある一断片を切り出してこれを固定的に結晶させざるを得ない。そのような言語の本来的機能を活かしながら、しかも意味の結晶体を溶解させようと、禅はする。結晶体を結晶体の姿で見ることにとどまらずに、本源的非結晶体に転じ、そしてまたたちまちもとの非結晶体にもどる微妙な全過程を、電光ひらめく一瞬の言語活動に捉えようとし、捉えさせようとする。自然的言語が極度に歪曲されることは当然であろう。この歪曲が普通の人の目には「無意味」と見える。

「禅における言語的意味の問題」/『意識と本質』(p.362-363)


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