福田恆存

ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)はじめてこのイエスのことばにぶつかつたとき、ぼくはその比喩の意味を正当に解釈しえずして、しかもその深さを直観した。もちろん正統派の解釈は蕩児の帰宅と同様に、一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたゝび神のもとにもどつてきたものに、より大きな愛情をもつて対するクリスト者の態度を説いたものとしてゐる。たしかにルカ伝第十五章はなほそのあとにかう綴つてゐる――「つひに見いださば、喜びてこれをおのが肩にかけ、家に帰りてその友と隣人とを呼びあつめていはん、『われとともに喜べ、失せたるわが羊を見いだせり』われなんぢらに告ぐ、かくのごとく、悔い改むるひとりの罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しきものにもまさりて天に喜びあるべし。」
が、天の存在を信ずることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのである。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてもなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。
善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としてゐるにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。

「一匹と九十九匹と」/『日本近代文学評論選 昭和篇』

強調引用者


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