亀井勝一郎

人間は実にふしぎなもので、自ら恋愛し、求めて家族をつくりあげ、やがてその中で孤独になる。「神が人間を創り給もうた。さて、まだこれでは孤独さが足りないと思召(おぼしめ)て、もっと孤独を感じさせるために妻を与え給もうた」(ヴァレリー)という言葉があります。(中略)この意味から言えば、精神にとって、家族とは悲劇的存在であります。それは分裂をはらむ危機の結合体なのです。

精神は、その本質上つねに「一(ひとつ)」であらねばなりませぬ。単一性がその本来の面目なのであって、複数化するにつれて精神は弱くなるものです。何故なら、危機と不安に対する絶えざる抵抗力である以上、複数のなかに埋没し去ることはその死を意味するからです。複数とは、私がさきに述べた他者からの自己限定と言ってもよい。世間並に、似たようなものになることです。家族は複数的存在の単位であります。

家族は「敵」とさえ感ぜらるるようになります。このときの孤独は、自己変革を起こしたときの革命的エネルギーと言ってもよい。細胞分裂のエネルギーであります。そして、すべて精神と名づけらるるものは、邂逅によってこれを誘発されるのです。キリストの次のような言葉は非常に興味ふかいと思いませんか。

「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな。平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは、人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑より分たんためなり。人の仇は、その家の者なるべし、我よりも父また母を愛する者は、我にふさわしからず……」(マタイ伝第十章)
家族の否定です。すべてを捨てて神に従うことをすすめる信仰は、それを抑止する家族を仇とみなす。宗教的色彩をもつ革命的党派もおそらくそうでしょう。家族のもつエゴイズムを破壊することなくしては、「個」は純粋ではありえませぬ。換言すれば、かかる「個」の集団を第二の家族に変様せしめて、人間的愛を超えた神の普遍的愛をここに徹底せしめようと志すわけで、同じようなことを、親鸞も言っております。

親鸞は、父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まうしたることを未ださふらはず。そのゆゑは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり」(『歎異抄』)

孝養の否定です。孝養という特定のものにささげられる愛のエゴイズムの否定です。そしてすべてのものを、父母兄弟のごとく愛そうという仏への帰依が語られています。この発願によって終局的には父母をも包含しようという、「我」の愛の否定の後に来た「仏」の愛による摂取不捨(せっしゅふしゃ)を念じているわけです。

愛の無常について』70項〜72項