河合祥一郎

哲学者ニコラウス・クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」(神様が私をご覧になっているから、私は存在する)という言葉に象徴されるように、中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした。それに対して、ルネ・デカルトの「我思う故に我在り」(コギト・エルゴ・スム、英語ではI think therefore I am)になると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考え、それによって主体が自立的・能動的に世界に存在することができる。それが近代的自我のはじまりです。『ハムレット』は、中世を引きずりながらも、まさに近代へと羽ばたこうとする時代に書かれました。デカルトの〈コギト〉は1637年の『方法序説』に登場するのですが、それはちょうどシェイクスピアの一世代あとなのです。

 

逆に言えば、シェイクスピアの『ハムレット』は、デカルトに先んじて、近代的自我の原型のような主体を提示しているとも言えます。ただ、神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情(passion)のなかで生きるという中世的な生き方と、理性(reason)で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。結論から言ってしまうと、ハムレットは近代的自我に引き寄せられていくけれども、けっきょく近代的自我では解決せず、最後はやはり「神の摂理」に委(ゆだ)ねる──俺がひとりで悩んでいてもしょうがないのだ、という大きな悟りに至ります。そこが哲学的に、とても深いところだろうと私は思います。

『NHK100分de名著 シェイクスピア ハムレット』

 

参照:http://textview.jp/post/culture/18226