内田樹

ジェインズの仮説は、この「自己同一的な私」というものが人類史に出現してきたのは、私たちが想像するよりはるかに近年になってからであろうというものである。
「自己同一的な私」が登場する以前には、「それまでの人生で積み重ねてきた訓戒的な知恵をもとに、何をすべきかを告げる」機能は「神々」が果たしていた。
だから、その時代の人々は、何か非日常的な事件に遭遇して、緊急な判断を要するとき、「神々」の声がどうすべきかを「非意識的に告げるのを」待ったのである。

ジュリアン・ジェインズはたいへん刺激的な思想家であるが、私が個人的にいちばん面白いなと思ったのは、「自我」の起源的形態が「神々」だというアイディアである。
私はこの考想はきわめて生産的なものだと思う。
だから、「自分探し」が「聖杯探し」とまったく同一の神話的構造をもっているのも当然なのである(地の果てまで行ってもやっぱり聖杯はみつからないという結論まで含めて)。
私につねにもっとも適切な命令を下す「私だけの神の声」を現代人は「ほんとうの自分」というふうに術語化しているわけである。
自己利益の追求とか自己実現とか自己決定とかいうのは、要するに「『ほんとうの私』という名の神」に盲目的に聴従せよと説く新手の宗教なのである。

「神々」の声 (内田樹の研究室)



参考:ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』


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