戸田山和久

まず、人生総体の究極目的を求めてしまうのは、われわれが獲得した目的手段推論のための能力のある種の暴走だということだ。目的手段推論は、すぐには満たすことのできない目的を表象し、その目的を実現するための手段を探索する推論のことだった。つまり、目的を入力して手段を出力としている。目的も手段も言語的に表象されることによってこの推論が可能になっている。
さて、言語的な推論は容易に逆転させることができる。手段の表象を入力として、目的を探索する装置としても使えてしまう。こうして、われわれは「これを手に入れるためには、何をしよう。それをするためには何をしよう……」という推論連鎖だけではなく、「いまやっているこれは何のため、それは何のため、それは……」という逆転した推論連鎖を行うことができてしまう。この連鎖をどこまでもたどっていこうとすると、最終的に連鎖を打ち止めにする究極目的がなければと思ってしまう。

『哲学入門』

 

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