見田宗介

〈消費〉のコンセプトの最も徹底した、非妥協的な追求者であったバタイユは、やがてこの〈消費〉の観念の肯定形の転回ともいうべき形式であると同時に、それ自体としていっそう原的な根拠であり地平であるものの表現として、〈至高なもの〉 La souveraineté というコンセプトに到達し、三部作をこのコンセプトを主題として展開している。至高性とは、〈あらゆる効用と有用性の彼方にある自由の領域〉であり、他の何ものの手段でもなく、それ自体として直接に充溢であり歓びであるような領域である。バタイユはこのような〈至高の生〉として、「たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きにほかならないこともある」としている。(『至高性』)
バタイユはこの朝の陽光という単純な至福のうちに、最も奢侈でぜいたくな〈消費〉の極限の一つをみている。他の何ものの手段でもなく、測られず換算されない生の直接的な歓びの一つの極限のかたちをみている。けれども、この生の「奇蹟的な要素」、「われわれの心をうっとりとさせる要素」は、どんな大仕掛けな快楽や幸福の装置も必要としないものであり、どんな自然や他者からの収奪も解体も必要とすることのないものである。

『現代社会の理論』(p166-167)

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