小林秀雄

この主人公*1は、人間の意識というものを、殆どベルグソンの先駆者の様に考える。意識とは観念と行為との算術的差であって、差が零になった時に本能的行為が現れ、差が極大になった時に、人は、可能的行為の林のなかで道を失う。安全な社会生活の保証人は、習慣的行為というものであり、言い代えれば、不徹底な自意識というものである。自意識を豊富にしたければ、何にもしなければよい。「地下室」にあって、拱手傍観するこの主人公には、地上には馬鹿者どもか悪党どもしかいない様に見える。奴等は皆同類だ、が、俺は一人だ。ところが、彼にしてみれば、自ら「地下室」に立て籠ったのか、「地下室」に叩き込まれたのか一向はっきりしないところがやりきれないのである。彼は、「地下室」の臭気にむせ返り、地上の住民達に対して出す舌が、自分自身に対して出す舌と同じである事に苛立つ。否定と疑惑とに燃え上る彼の自意識も、例えば、自分の顔の下品さに悩む彼のささやかな虚栄心を如何ともする力がない。

行為は精神の自由を限定する、馬鹿にならなければ、どんな行為も不可能だ、「地下室の手記」は、そういう奇妙な考えに悩む男の物語であったが、真の主題は、行為の必然性を侮蔑し、精神の可能性をいよいよ拡大してみると、行為の不可能性という壁に衝突するというパラドックスにあった。彼もまた「何処でもいい、何処かに行く処がなければならぬ」男なのである。

「『罪と罰』についてⅡ」


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*1:地下室の手記』の主人公