吉川浩満

はじめに──フロイトの二段階革命

 

本稿は、人間の思考、なかんずくその合理性と主体性をめぐって進行している知識革命にかんする中間報告である。

 

ジークムント・フロイトはかって、人類は科学によって三度自尊心を傷つけられた、と語った。コペルニクス天文学によって地球が宇宙の主人の座から転落し、ダーウィンの進化論によって人間が生物の主人の座から転落し、私の精神分析学によって自我が人間の主人の座から転落したのだ、と。

 

彼は自分が着手したプロジェクトが人類全体の自尊心にかかわる知識革命をもたらすことを見抜いた点で正しかった。ただ誤算もあった。それは、彼自身の学説がこの革命を最後まで生き延びられなかったことだ。その後、赤の他人というべき新勢力がこのプロジェクトを引き継ぐ結果となった。

 

その新勢力とは、人間のヒューリスティクスとバイアスにかんする実験心理学的な諸研究である。当のフロイト学説を疑似科学の地位に追いやった実証主義的な潮流に棹さす勢力だ。

 

人間の思考の大部分は「ヒューリスティクス」にもとづいているといわれる。ヒューリスティクスとは、問題解決に際して時間労力をかけずにおおよその解を得る手続きを指す。経験や習慣にもとづいた直観的判断などがこれに当たる。それにたいして、一定の手順に従うことで必ず正解を得る手続きをアルゴリズムと呼ぶ。コンピュータ・プログラムがその典型である。ヒューリスティクスは省資源で素早くおおまかな解をもたらすが、一定の偏りを含むことが多い。この偏りが「バイアス」であり、人間の思考に系統的な誤りを呼びこむ。一九七○年代以降、このヒューリスティクスとバイアスの研究によって、人間の思考にかんして注目すべき知見が着々と積み上げられてきた。

 

研究の当事者たちはフロイトの継承なんて冗談じゃないと考えるかもしれない。だが、ヒューリスティクスとバイアスにかんする研究が実証してきたのは、人間が種々の誤り、勘違い、自己欺肺を避けられない性向をもつという事実である。要するに人間の思考は人間本性によって裏切られるということであり、これこそフロイト革命の大義にほかならない。人類の自尊心にかかわる自己知の変動は依然として進行中なのである。

「フロイト革命の帰趨──合理性のマトリックスとロボットの叛逆」

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/26/231324
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/15/184104
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/18/015548

河合祥一郎

哲学者ニコラウス・クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」(神様が私をご覧になっているから、私は存在する)という言葉に象徴されるように、中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした。それに対して、ルネ・デカルトの「我思う故に我在り」(コギト・エルゴ・スム、英語ではI think therefore I am)になると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考え、それによって主体が自立的・能動的に世界に存在することができる。それが近代的自我のはじまりです。『ハムレット』は、中世を引きずりながらも、まさに近代へと羽ばたこうとする時代に書かれました。デカルトの〈コギト〉は1637年の『方法序説』に登場するのですが、それはちょうどシェイクスピアの一世代あとなのです。

 

逆に言えば、シェイクスピアの『ハムレット』は、デカルトに先んじて、近代的自我の原型のような主体を提示しているとも言えます。ただ、神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情(passion)のなかで生きるという中世的な生き方と、理性(reason)で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。結論から言ってしまうと、ハムレットは近代的自我に引き寄せられていくけれども、けっきょく近代的自我では解決せず、最後はやはり「神の摂理」に委(ゆだ)ねる──俺がひとりで悩んでいてもしょうがないのだ、という大きな悟りに至ります。そこが哲学的に、とても深いところだろうと私は思います。

『NHK100分de名著 シェイクスピア ハムレット』

 

参照:http://textview.jp/post/culture/18226

内田樹

ジェインズの仮説は、この「自己同一的な私」というものが人類史に出現してきたのは、私たちが想像するよりはるかに近年になってからであろうというものである。
「自己同一的な私」が登場する以前には、「それまでの人生で積み重ねてきた訓戒的な知恵をもとに、何をすべきかを告げる」機能は「神々」が果たしていた。
だから、その時代の人々は、何か非日常的な事件に遭遇して、緊急な判断を要するとき、「神々」の声がどうすべきかを「非意識的に告げるのを」待ったのである。

ジュリアン・ジェインズはたいへん刺激的な思想家であるが、私が個人的にいちばん面白いなと思ったのは、「自我」の起源的形態が「神々」だというアイディアである。
私はこの考想はきわめて生産的なものだと思う。
だから、「自分探し」が「聖杯探し」とまったく同一の神話的構造をもっているのも当然なのである(地の果てまで行ってもやっぱり聖杯はみつからないという結論まで含めて)。
私につねにもっとも適切な命令を下す「私だけの神の声」を現代人は「ほんとうの自分」というふうに術語化しているわけである。
自己利益の追求とか自己実現とか自己決定とかいうのは、要するに「『ほんとうの私』という名の神」に盲目的に聴従せよと説く新手の宗教なのである。

「神々」の声 (内田樹の研究室)



参考:ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』


関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/06/08/214128
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/24/054856
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20100531/1275299320

ソクラテス

しかしながら、諸君、真に賢明なのは独り神のみでありまた彼がこの神託においていわんとするところは、人智の価値は僅少もしくは空無であるということに過ぎないように思われる。そうして神はこのソクラテスについて語りまた私の名を用いてはいるが、それは私を一例として引いたに過ぎぬように見える。それはあたかも、「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の智慧は、実際何の価値もないものと悟った者である」とでもいったかのようなものである。それだからこそ私は今もなお神意のままに歩き廻って、同市民であれまたよそ者であれ、いやしくも賢者と思われる者を見つければ、これを捉えてこの事を探求しまた闡明しているのである。そうして事実これに反することが分かれば、私は神の助力者となって、彼が賢者でないことを指摘する。またこの仕事あるが故に、私は公事においても私事においてもいうに足るほどの事効を挙ぐる暇なく、神への奉仕の事業のために極貧の裡に生活しているのである。

プラトン『ソクラテスの弁明』(p.23-24)


参考:無知の知とは - はてなキーワード

パスカル

私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。

『パンセ』(断章77)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/01/17/204234