ベルクソン

私は哲学をしはじめるやいなや「なぜ自分は存在するのか」と自問する。自分を自分以外の宇宙とつなぐ連帯が呑みこめると、そのとき困難は後しざりしただけなので、つぎに私は「なぜ宇宙は存在するか」を知ろうとする。さらに宇宙を内在もしくは超越的な「原理」にむすびつけ、これが宇宙を支えるあるいは創造することにしてみても、私の思考はその原理にほんのしばらくしか落ち着けない。おなじ問題がこんどはそのありったけの含みと一般性をそなえてあらわれる。「なにかが存在する」ということは何処からくるか、それはどう理解したらよいのか。私はこの研究においても物質を一種の下りとして、その下りを上りの阻害として、その上りそのものは増大としてづぎつぎに定義し、要するにものの底に創造の「原理」を置いてきたのであるが、ここでもやはりおなじ問題がもちあがる。「その原理が存在していてむしろ何もないのではないということはどうしてか、なぜか。」

およそ人間の行動の出発点に不満足があり、だからこそまた欠在の感じがあることは争えない。ひとはある目標をたてなければ行動しないであろうし、あるものの欠如を感じればこそそれを求めもする。そのようなことで、私たちの行動は「無」から「あるもの」へと進むのであり、「無」のカンヴァスに「あるもの」を刺繍することは実に行動の本質をなしている。もっとも、いま問題の無とはものの欠在よりはむしろ有用性の欠在のことである。まだ家具でかざられていない部屋に客をみちびくとき私は客に告げて「なにもありません」という。しかし部屋に空気のみちていることは知っている。けれども空気のうえに坐るのではないから、只今のところ部屋のなかには客にとっても私自身にとってもものらしいものは正直いってなにもなかったわけである。一般的にいって、人間の仕事とは有用性を創造することである。そして仕事がなされないかぎりは「なにも」ない、すなわちひとが入手したかったものは「なにも」ない。こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。…私たちの思弁もまた同じようにやってみずにはいられない。…事象は空虚をうずめるものだとする考えや、あらゆるものの欠在という意味での無は事実上そうではないにしても権利上はあらゆるものに先在するという考えが、こうして私たちのなかに根をおろす。私はこの錯覚を消散させようとこころみてきた。

『創造的進化』

 強調引用者

 

参照:なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20120229/p1
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/04/30/001730