埴谷雄高

さて、ところで、政治的立場の自由を主張した私自身の政治的立場は、非政治的であった。私はそんな自身が屡々滑稽になるが、もしこんな表現が許されれば、私は政治的無活動の自由をネガティヴな形で主張したことになる。私の態度は、古きギリシヤの懐疑派のごとく、判断中止であった。勿論、判断中止という態度は必ずしも判断力の皆無ということのみを意味しない。屡々、判断の過剰もまた判断中止の原因となるのである。[…]ひとたび判断の過剰を意識すると、そのものは無表情になり、しかも胸中の動乱は益々果てもなくなると私は信じている。ただに政治に対してばかりではない。政治は私達の生にとって比較的重要な部分に過ぎないのであるから、表面無表情になり、しかも胸中の動乱が果てもなくなるものは、必らず、遥かとおく生と存在の謎に向き合っているのである。このような極点へ向かう傾向と思考法をもったものは、恐らく、やや滑稽であって、また悲劇的でもある、と私は信じている。そして、判断中止の仮面をかむる私にひたすら無限判断を好む傾向があると認めざるを得ないことは、同時にまた、私の不幸である。

(「政治をめぐる断想」)