デイヴィット・ドイッチュ

宇宙物理学者 (…)オックスフォード大学の量子物理学者デイヴィット・ドイッチュは、知性がコントロールすることのできる宇宙の領域は徐々に拡張し、数億年後には、いわば「超知性」が誕生するだろうと述べています。最終段階において、この「超知性」は宇宙と一体化し、「全知と呼べるようなものに向かって進んでいる」ということで、彼はこの考え方を「最終的人間原理」と述べています。

高橋昌一郎『知性の限界』(p.252)

 

参考:『世界の究極理論は存在するか―多宇宙理論から見た生命、進化、時間』

関連:アーサー・C・クラーク著 『幼年期の終わり』について

 

ハルトマン

形而上学 (…)要するに、人間は苦悩するために存在しているのであり、消滅するに越したことはないのですが、数億年もすれば、再び「宇宙的無意識」は新たな人間を生み出して、彼らが再び苦しまなければなりません。さらに、仮に地球を破壊したとしても、「宇宙的無意識」はどこか別の惑星上に「盲目的意志」に支配される知的生命体を生み出し、彼らが人間と似たよう苦悩を背負わなければなりません。
それでは、人間はどうすればよいのか? ハルトマンの結論によれば、人間はできる限り進歩的な精神をもって、科学を発展させるべきなのです。

 

会社員 何ですって? ハルトマンは、科学の発展が人間世界を改善することはないと言っていたんじゃないですか?

 

形而上学 そうなのですが、彼が科学を発展させるべきだと言っているのは、人類を幸福に導くためではなく、人類があらゆる知識をもって「宇宙的無意識」を「宇宙的意識」に進化させ、宇宙が二度と生命を生み出したりしないように、絶対的に宇宙そのものを消滅させる方法を見つけるためなのです!

 

会社員 わかった! つまり宇宙自身が自殺するということですね!

 

形而上学 そのとおりです。二度と「存在の悲劇」が繰り返されないように、宇宙を永遠に消滅させるということです。

  高橋昌一郎『知性の限界』(p.255-256)

 

参考:『無意識の哲学』

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/03/15/103741
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/22/231218

 

バナール

科学主義者 (…)バナールの想定する未来人は、「複合脳」に進化して宇宙に進出する「科学者」と、「肉体の快楽と健康を享受し、芸術をたしなみ、宗教を愛護してゆく幸福で繁栄した人類」すなわち「人間主義者」とに分かれていきます。
地球上で楽しい人生を送った後の人間主義者は、「自分の肉体を捨てるか自分の生命を捨てるか」という決断を迫られることになります。ここで肉体を捨てて「複合脳」の一部になってもよいし、「自分の生命を捨てる」という従来の死と同じ選択もあるわけです。

実は、「無知や欲望や愚かさなど人間の内面に潜む悪魔」だけは、未来社会でも完全には克服されません。なぜなら、これら「人間主義者」によって引き継がれていくからでして、「科学者」は、宇宙植民地から地球を管理するようになります。
「こうして地球は、実は一個の人間動物園に転化してしまうかもしれない。その動物園は、きわめて賢明に管理されているので、そこに住んでいる人たちは自分が単に観察と実験のために保護されているのだということに気付かない、というわけである」

高橋昌一郎『感性の限界』(p.242-243)

 

参考:『宇宙・肉体・悪魔―理性的精神の敵について』

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20091021/1256110055

松田卓也

――人類を滅ぼす可能性があっても、人類は「神のような機械」を作るべきなのでしょうか?


それについては、賛成派と反対派にわかれるでしょう。

 

デ・ガリスは、賛成派を「コスミスト」=「宇宙派」、反対派を「テラン」=「地球派」と呼んでいます。宇宙派は「人類ごときが宇宙の進化をとめてはいけない。たとえ人類が滅んでも神となる人工知能をつくるべき」という人たち。一方、地球派は「人類がもっとも大切だ。人類を滅ぼすような人工知能は不要だ」という。

デ・ガリスは、21世紀後半に地球派と宇宙派の間で大戦争がおき、「ギガ・デス」、すなわち、数十億人が死ぬことになるだろうと言います。これは「人工知性戦争」と呼ばれ、欧米の一部では大きな論争を呼んでいます。

ここで人工知能の進化には、2つの見方があると思います。ひとつは人工知能と人間が敵対するという、デ・ガリスのような考え。映画でいうと『ターミネーター』や『マトリックス』で描かれた未来像ですね。

 

もうひとつは、カーツワイルらが主張する、インテリジェンス・アンプリフィケーション=知能増強という考え方。これは人工知能と人間が融合して、人間の個性を保ったまま知能を増強し、「超人類」になるというもの。いわゆる「サイボーグ派」です。

映画『トランセンデンス』の主人公、ウィルも「サイボーグ派」と言えるでしょう。生身の肉体はなくなっているけど、個性や人格はあるという点で、人間とも言えるわけです。ただ、すごい知能をもった「超人類」なのです。僕は、こちらの方向に進めばいいと思います。

http://wired.jp/special/transcendence/

埴谷雄高

――おお、私は、肉体と精神の裡、精神へ賭ける。人間の優位を主張する。この宇宙が自然的に衰滅することなど決してなく、必ず人間的なものによって破壊されると信ずる。人間は、この唯一無二の証明によって、偉大な自己否定に達するのです!
そう呻き上げるように黒川健吉は一気にいいきった。(p.353)

――(…)もし人間をその内部に含んでいた存在が、或るとき、ある窮極の、時間の涯のような瞬間、怖ろしい自己反省をして、そこに嘗て見慣れた存在以外のものを認めたとしたら、永遠に理解しがたいようなものがそこに残っていたとしたら、ばっくり口をあけ虚空の空気が通うほどの巨大な傷がそこに開いているとしたら、そのものは人間からつけ加えられたものだ。それは時期知れぬ、何時の間にかつけ加えられた。それは、それまで見たことも予想したこともなかった、まるで奇妙な、存在が不動の存在である限り決して理解しがたいものの筈です。おお、それこそ……その名状しがたいものこそ、虚体です! 三輪の問題とは、人間はついに人間を超え得るか、否か、だ。人間がついに永遠の人間性を主張し得るために、むしろ存在をのみこみ、内包するほど茫漠たる巨大な虚体を、目もなく耳もないような忌まわしいその相手へ決然と与え得るか、否か、だ。おお、そうなのです!
そう激しく息づきながら、黒川健吉は悩ましげにいいきった。(p.367)

『死霊』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/18/190521
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/03/15/091118

埴谷雄高・立花隆

立花 面白いのは、今、コンピュータがどんどんどんどん高性能化して大きくなって複雑化するでしょう。そうすると、ソフトがどんどん複雑になって追いつかないんですよ。で、今いちばん新しく出てきた考えが、自己増殖して進化するソフトを作ろうということです。

 

埴谷 ぼくの革命だ。存在の革命は、自己増殖して進化するというのがぼくの『死霊』なんですよ(笑)。それが実現すれば、ぼくは『死霊』を書く必要はないですよ。(p.212)

埴谷 (…)だから満たされない魂を満たすことは、社会保障だけではだめだと。

 

立花 満たされざる魂という問題になると、生命の生きてるという在り方そのものが満たされない状態ということですね。

 

埴谷 それでぼくは「生と存在の革命」と言ってるんですよ。だからコンピュータのことを言ったのは、生をどういうふうにするかということが最大の問題。オスとメスがいなければ子供が生まれないという形式と、もう一つはほかの生物を食わないと、食物連鎖がなければ生きられない。しかも人間は食物連鎖の最後で、いろんなものを全部食って生きてる。その生物の在り方自体をどういうふうに解決するかです。(…)単性生殖で完全に出来るようになる。そうすると、ぼくの言う生と存在の革命はものすごいことになっちゃいます。食物と性の問題が解決したら、人間は超人間になれますね。
(p.251-253)

  埴谷雄高立花隆無限の相のもとに

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/27/042330
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2016/01/31/234902

 

埴谷雄高

“存在は存在である”といった場合、全存在形式を予覚させず、現在の一存在形式の枠のなかへだけ私達を永劫に縛っておくことしか生じないのですが、我々が生まれると同時に、こうとしか考えられず、こうとしか存在し得なく閉じこめられていること自体がぼくにとって“屈辱”であるという意味なんです。

埴谷インタビュー「薔薇、屈辱、自同律」(『無限の相のもとに』の注 p.138)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/14/214248

夏目漱石

曰く自己の繙読しつゝある一書物より一個の暗示を得べく務ることこれ也。唯漫然として書の内容を記憶し、理解するに止まらば、読書の上に何の効果あらんや。

「余が一家の読書法」『漱石全集 第25巻』

参照:http://lite-ra.com/2015/03/post-938_3.html

山本貴光

「実は、物理環境はとても大事だと思っているんです。電子データは、検索したり呼び出すまでは見えないところに保存されている便利さがあります。本と比べて場所をとりませんよね。これに対して書棚に本を並べるような物理環境は、かさばる代わりに常にそこにあります。こっちが意識しようが意識してなかろうが、いつもそこにあって知らずしらずのうちに刺激されるのです。電子データは意識して呼び出すものなので、なかなかこういう具合にはいきません。ひょっとしたら私の記憶力の問題かもしれませんが、思い出しづらいのです」

ネット時代こそ本を読め! でもどうやって…膨大な数の本に戸惑っている人のための読書術