河合祥一郎

哲学者ニコラウス・クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」(神様が私をご覧になっているから、私は存在する)という言葉に象徴されるように、中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした。それに対して、ルネ・デカルトの「我思う故に我在り」(コギト・エルゴ・スム、英語ではI think therefore I am)になると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考え、それによって主体が自立的・能動的に世界に存在することができる。それが近代的自我のはじまりです。『ハムレット』は、中世を引きずりながらも、まさに近代へと羽ばたこうとする時代に書かれました。デカルトの〈コギト〉は1637年の『方法序説』に登場するのですが、それはちょうどシェイクスピアの一世代あとなのです。

 

逆に言えば、シェイクスピアの『ハムレット』は、デカルトに先んじて、近代的自我の原型のような主体を提示しているとも言えます。ただ、神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情(passion)のなかで生きるという中世的な生き方と、理性(reason)で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。結論から言ってしまうと、ハムレットは近代的自我に引き寄せられていくけれども、けっきょく近代的自我では解決せず、最後はやはり「神の摂理」に委(ゆだ)ねる──俺がひとりで悩んでいてもしょうがないのだ、という大きな悟りに至ります。そこが哲学的に、とても深いところだろうと私は思います。

『NHK100分de名著 シェイクスピア ハムレット』

 

参照:http://textview.jp/post/culture/18226

吉川浩満

はじめに──フロイトの二段階革命

 

本稿は、人間の思考、なかんずくその合理性と主体性をめぐって進行している知識革命にかんする中間報告である。

 

ジークムント・フロイトはかって、人類は科学によって三度自尊心を傷つけられた、と語った。コペルニクス天文学によって地球が宇宙の主人の座から転落し、ダーウィンの進化論によって人間が生物の主人の座から転落し、私の精神分析学によって自我が人間の主人の座から転落したのだ、と。

 

彼は自分が着手したプロジェクトが人類全体の自尊心にかかわる知識革命をもたらすことを見抜いた点で正しかった。ただ誤算もあった。それは、彼自身の学説がこの革命を最後まで生き延びられなかったことだ。その後、赤の他人というべき新勢力がこのプロジェクトを引き継ぐ結果となった。

 

その新勢力とは、人間のヒューリスティクスとバイアスにかんする実験心理学的な諸研究である。当のフロイト学説を疑似科学の地位に追いやった実証主義的な潮流に棹さす勢力だ。

 

人間の思考の大部分は「ヒューリスティクス」にもとづいているといわれる。ヒューリスティクスとは、問題解決に際して時間労力をかけずにおおよその解を得る手続きを指す。経験や習慣にもとづいた直観的判断などがこれに当たる。それにたいして、一定の手順に従うことで必ず正解を得る手続きをアルゴリズムと呼ぶ。コンピュータ・プログラムがその典型である。ヒューリスティクスは省資源で素早くおおまかな解をもたらすが、一定の偏りを含むことが多い。この偏りが「バイアス」であり、人間の思考に系統的な誤りを呼びこむ。一九七○年代以降、このヒューリスティクスとバイアスの研究によって、人間の思考にかんして注目すべき知見が着々と積み上げられてきた。

 

研究の当事者たちはフロイトの継承なんて冗談じゃないと考えるかもしれない。だが、ヒューリスティクスとバイアスにかんする研究が実証してきたのは、人間が種々の誤り、勘違い、自己欺肺を避けられない性向をもつという事実である。要するに人間の思考は人間本性によって裏切られるということであり、これこそフロイト革命の大義にほかならない。人類の自尊心にかかわる自己知の変動は依然として進行中なのである。

「フロイト革命の帰趨──合理性のマトリックスとロボットの叛逆」

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/26/231324
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/15/184104
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/18/015548

アインシュタイン

世界で最も不可解なのは、世界が理解可能であるということです。

The most incomprehensible thing about the world is that it is comprehensible.

 

参照:http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51030685.html

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20110429/p1

ドミニク・チェン

シャナハンはJournal of Consciousness Studies誌に「シンギュラリティの前の悟り」(Satori before Singularity)という、短いが興味深い論文を寄稿している。そこでは汎用人工知能から導かれる超知能の特性として、post-reflectiveという形容詞が登場する。

 

進化の過程で人間の知性は言語という観察結果を記述する抽象的思考の道具を獲得したが、それは身体と完全に独立した機能ではなく、むしろ身体と有機的にカップリングして作動するシステムである。抽象化の能力は反省(reflection)という、事象再帰的に検証する行為を通して論理的な手続きを構築することを可能にしている。これは人間のような複雑な神経ネットワークを持たない前・反省的(pre-reflective)な生物にはない特徴である。

 

言語は思考の過程と結果を、生物学的な寿命を超える時間尺度で外部記憶化することを可能にし、そのことによって個体の知見が社会的に共有されうる。それと同時に、人間には言語的知性を獲得する以前の生物学的な摂理も備わっており、神経ネットワークで伝播される無意識の情動や意識上の感情といった生命的な情報によっても駆動される。

 

しかし、そもそもそういった生物学的な苦痛と快楽の源泉という反省への動機付けがない知能として人工的な超知能が開花すれば、それは反省を要さず、もはや人間のように生命的な自己保存や自己拡張という動機付けを持たない、仏教でいうところの「悟り」と似た状態にある知能の形として構想することも可能なのではないか。

 

シャナハンはこの論文のなかで、あくまで参考概念として、仏教における弥勒菩薩(Maitreya)、つまり未来において仏教の教えが忘却された時点において現世を終焉させ、人々を救済する存在を脚注で引いている。当然、超知能と未来仏を接続する意図は全くないと慎重に断っているが、このように私たちとは全く別の動機によって駆動される存在について考えることは、知性の多様な可能性の一形態に過ぎない私たちの実存的限界について考えることにつながることは確かだろう。

人間に開かれたAIに向けて

 

参考:マレー・シャナハン『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entries/2015/03/15
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/12/31/204850
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/22/220956
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/22/231218

岡倉覚三

茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。

『茶の本』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/13/011715

小林秀雄

例えば、こういう言葉がある。「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。当り前の事だと僕等は言う。だが、誰かは、それは確かパスカルの「レ・パンセ」のなかにある文句だ、と言うだろう。当り前な事を当り前の人間が語っても始まらないとみえる。パスカルは当り前の事を言うのに色々非凡な工夫を凝らしたに違いない。そして確かに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いてるので、彼の語る当り前な真理に今更驚いているのではない。驚いても始まらぬと肝に銘じているからだ。ところで、又、パスカルがどんな工夫を廻らそうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るという事は何か驚くべき事ではないのだろうか。
言葉を曖昧にしているわけではない。歴史の問題は、まさしくこういう人間の置かれた曖昧な事態のうちに生じ、これを抜け出る事が出来ずにいるように思われる。

「歴史について」/『ドストエフスキイの生活』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/03/18/082239

福沢諭吉

およそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし。貪吝、奢侈、誹謗の類はいずれも不徳のいちじるしきものなれども、よくこれを吟味すれば、その働きの素質において不善なるにあらず。これを施すべき場所柄と、その強弱の度と、その向かうところの方角とによりて、不徳の名を免るることあり。

右のほか、驕傲と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着と、浮薄と穎敏と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。譬えば他人の幸と我の不幸とを比較して、我に不足するところあれば、わが有様を進めて満足するの法を求めずして、かえって他人を不幸に陥れ、他人の有様を下して、もって彼我の平均をなさんと欲するがごとし。

『学問のすすめ』(十三編 怨望の人間に害あるを論ず)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/08/21/172945

勝海舟

心は明鏡止水のごとし、といふ事は、若い時に習つた剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかつた。かういふ風に応接して、かういふ風に切り抜けうなど、あらかじめ見込を立てておくのが、世間の風だけれども、これが一番わるいヨ。おれなどは、何にも考へたり目論見たりすることはせぬ。ただただいつさいの思慮を捨ててしまつて、妄想や雑念が、霊智を曇らすことのないやうにしておくばかりだ。すなはちいはゆる明鏡止水のやうに、心を磨ぎ澄ましておくばかりだ。かうしておくと、機に臨み、変に応じて事に処する方策の浮び出ること、あたかも影の形に従ひ、響の声に応ずるがごとくなるものだ。

『氷川清話』

 

参照:http://shiokawatakao.blogspot.jp/2014/11/2000.html

参考:明鏡止水 - 故事ことわざ辞典

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2016/02/13/232403

玄侑宗久

「不測に立ちて無有に遊ぶ」。荘子によると明王はこれで国を治めたと言いますが、もちろん実際の政治においてはありえない考え方でしょう。政治の仕事とは予算を立ててそれを執行することです。予算を立てるということは、まだ起きていないことを予測し、実現の計画を立てるわけです。そこで「不測に立ちて無有に遊ぶ」を実践することは難しい。ただ、個人においては、考えてみる価値は充分にあるのではないでしょうか。今の日本では、仕事でも家族のスケジュールでも、誰もが計画を立てすぎているように感じることがあります。いろいろなことがあまりにも細かく決まっているため、氣で感じるとか、直観に頼るといった機会がないのではないでしょうか。


「無有に遊ぶ」に込められた意味は、未来はここにはないのだから、「ないという今を遊ぶ」ということです。多くの人は、今日やるべきことが終わると、明日やることをつい引き寄せてしまいます。「明日できることは今日やらない」という強い信念がないと、人間は休めない。「無有に遊ぶ」とは、忙しい現代の私たちにとっても大事な教えなのです。

『NHK100分de名著 荘子』


参照:http://textview.jp/post/culture/20439

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/01/012340
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/18/015548

 

荘子

明王の治は、功は天下を蓋(おお)えども、己(おの)れよりせざるに似たり。化(か)は万物に貸(ほどこ)せども、而(しか)も民恃(たの)まず。有れども名を挙ぐる莫(な)く、物をして自(おの)ずから喜ばしむ。不測に立ちて無有に遊ぶ者なり。

為政者の仕事の効果は天下を覆っていながら、しかもそれを為政者のお陰とは思わない。教化感化は万人に及びながらも、人々はなにゆえの変化か知らないから何かを頼ることもない。政治の力ははっきりありながらしかも気づかれず、人は自然に喜んで暮らしている。明王とは、どう変化するか先の予測がつかない状態で、人がそれと気づかないあり方を遊ぶ存在なのである。

荘子』(応帝王篇)

強調引用者


参照:http://textview.jp/post/culture/20439

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/12/26/205605
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2016/03/15/220546

芥川龍之介

神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。
古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉こう云う信念に安んじている。

「神秘主義」/『侏儒の言葉』

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/03/18/222609