ダンカン・ワッツ

ひとつめは、基本が理論的な正規の知識体系と異なり、常識はきわめて実践的であることだ。つまり、どうすれば答が得られるかと悩むよりも、問いに答えを与えることに重きを置いている。

ある人にとっては当たり前のことが、ほかの人にはばかげて見えるのなら、世界を理解する土台として常識は頼りにならないのではないだろうか。

したがって、常識に基づく推論はただひとつの決定的な限界ではなく、複数の限界が組み合わさったものに悩まされている。そしてそれらはすべて補完関係にあり、さらには互いを覆い隠している。その結果、常識に基づく推論は世界を意味づけするのは得意だが、世界を理解するのは必ずしも得意ではない。

『偶然の科学』

 

参照:http://rashita.net/blog/?p=13855

 

関連:http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51768020.html
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/04/18/171818
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/02/05/180319
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/10/06/223014
https://twitter.com/hideKoba_bot/status/677081996577796096

松尾豊

人間の認知は予測可能性を上げるためにできていると思います。そのために世界を分節し、モデル化します。悟りとの関連性ですが、おそらく、人工知能の技術が進み、世界の予測性を上げようとする過程で、自己と他者を区別したほうがよくなる段階が来るかもしれません。つまり、自己の特徴を踏まえた上で現象を観測したほうが、観察して得られた知識が活かしやすいということです。また自己だけは、行動の計画ができますから、予測可能性が非常に高いです。

 

そこでいったん、自己と他者の区別が生まれるのですが、さらに世界の予測可能性が上がっていくと、自己の予測と同程度に、他者の予測性もあがっていく、そうすると、もはや自己と他者を区別する必然性がなくなります。つまり、自他を区別せず、一体として世界を理解している状態です。これが、もしかしたら悟りの境地なのかもしれません。と、いい加減なことを言ってたら怒られますが(笑)。

「人工知能は悟れるのか?」光明寺 松本僧侶×東大 松尾豊 研究者対談


関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2013/12/26/154202
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/09/29/021723
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/01/17/204039
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/12/26/204708
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/22/234024

柄谷行人

狩猟採集によって得た収穫物は、不参加者であれ、客人であれ、すべての者に、平等に分配される。これは、この社会が狩猟採集に従事しているからではなく、遊動的だからである。彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することができない。ゆえに、それを所有する意味もないから全員で均等に分配してしまうのだ。(p.182)

たとえば、縄文時代は新石器文化である。もちろん、そこで始まった栽培・飼育が、農耕・牧畜へと発展する可能性はあった。また、定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性があった。それは早晩、国家の形成にいたるだろう。しかし、そうならなかったのは、定住した狩猟採集民がそれを斥けたからである。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステムを創りだした。それが贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)なのである。ゆえに、農耕・牧畜と国家社会の出現を「新石器革命」と呼ぶのであれば、われわれは、それを阻止することをむしろ革命と呼ぶべきであろう。その意味で、私はこれを「定住革命」と呼ぶ。
一般に、氏族社会は国家形成の前段階として見られている。しかし、むしろ、それは定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てとして見るべきである。その意味で、氏族社会は「未開社会」ではなく、高度な社会システムだといえる。それは、われわれに或る可能性、つまり、国家を超える道を開示するものとなる。
くりかえすと、定住とともに、集団の成員は互酬性の原理によって縛られるようになった。贈与を義務として強いることによって、不平等の発生を妨げたからである。もちろん、これは人々が相談して決めたことではない。それはいわば「神の命令」として彼らに課せられたのである。(p.183-184)

『遊動論――柳田国男と山人』

 

参照:http://tokyotram.blogspot.jp/2014/04/blog-post_25.html

西田正規

さて、定住者は、家や集落の清掃に気を配り、丈夫な家を建て、ごく限られた行動圏内で活動し、社会的な規則や権威を発達させ、呪術的世界を拡大させるといった傾向を持つことになる。このように考えてくると、従来、ともすれば農耕社会の特質と見なされてきた多くの事柄が、実は農耕社会というよりも、定住社会の特質としてより深く理解できるのである。(p.34)

遊動民のキャンプ移動の持つ機能は、生活のあらゆる側面にかかわっている。遊動生活とは、ゴミ、排泄物、不和、不安、不快、欠乏、病、寄生虫、退屈など悪しきものの一切から逃れ去り、それらの蓄積を防ぐ生活のシステムである。 移動する生活は、運搬能力以上の物を持つことが許されない。わずかな基本的な道具の他は、住居も家具も、さまざまな道具も、移動の時に捨てられ、いわゆる富の蓄積とは無縁である。 掛谷誠は、遊動する「狩猟採集民の社会では、生態・社会・文化のシステム全体が<妬み>を回避するように機能して」おり、「病因論においても呪いは基本的存在せず、あってもきわめてマイナーな位置しか占めない」と述べている。彼らは妬みや恨みすら捨て去るのであろう。(p.66-67)

『人類史のなかの定住革命』


参照:http://www.asahi-net.or.jp/~zj7t-fji/book_jinruishinonakano.html

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/05/222349
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/07/09/215146
http://hideasasu.hatenablog.com/entries/2015/10/14

小林秀雄

人の有るが儘の心は、まことに脆弱なものであるという、疑いようのない事実の、しっかりした容認のないところに、正しい生活も正しい学問も成り立たぬという、彼〔宣長〕の固い信念、そこに大事がある。「うごくこゝろぞ 人のまごころ」と歌われているところは、動かなければ、心は心である事を止める、動かぬ心は「死物」であるという、きっぱりとした意味合なので、世に聖人と言われている人が、いかに巧みに「不動心」を説いてみせても、当人の「自慢ノ作リ事」を出られないのは、死物を以て、生物を解こうとする、或は解けるとする無理から来る。自分の学問では、死物は扱わない。扱うものは、人の生きた心だけである。従って、学問の努力の中心部では、生きた心が生きた心に直かに触れて、これを知るという事しか起らない。

『本居宣長』(下)

パスカル

私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。

『パンセ』(断章77)

 

関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/01/17/204234

ソクラテス

しかしながら、諸君、真に賢明なのは独り神のみでありまた彼がこの神託においていわんとするところは、人智の価値は僅少もしくは空無であるということに過ぎないように思われる。そうして神はこのソクラテスについて語りまた私の名を用いてはいるが、それは私を一例として引いたに過ぎぬように見える。それはあたかも、「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の智慧は、実際何の価値もないものと悟った者である」とでもいったかのようなものである。それだからこそ私は今もなお神意のままに歩き廻って、同市民であれまたよそ者であれ、いやしくも賢者と思われる者を見つければ、これを捉えてこの事を探求しまた闡明しているのである。そうして事実これに反することが分かれば、私は神の助力者となって、彼が賢者でないことを指摘する。またこの仕事あるが故に、私は公事においても私事においてもいうに足るほどの事効を挙ぐる暇なく、神への奉仕の事業のために極貧の裡に生活しているのである。

プラトン『ソクラテスの弁明』(p.23-24)


参考:無知の知とは - はてなキーワード

内田樹

ジェインズの仮説は、この「自己同一的な私」というものが人類史に出現してきたのは、私たちが想像するよりはるかに近年になってからであろうというものである。
「自己同一的な私」が登場する以前には、「それまでの人生で積み重ねてきた訓戒的な知恵をもとに、何をすべきかを告げる」機能は「神々」が果たしていた。
だから、その時代の人々は、何か非日常的な事件に遭遇して、緊急な判断を要するとき、「神々」の声がどうすべきかを「非意識的に告げるのを」待ったのである。

ジュリアン・ジェインズはたいへん刺激的な思想家であるが、私が個人的にいちばん面白いなと思ったのは、「自我」の起源的形態が「神々」だというアイディアである。
私はこの考想はきわめて生産的なものだと思う。
だから、「自分探し」が「聖杯探し」とまったく同一の神話的構造をもっているのも当然なのである(地の果てまで行ってもやっぱり聖杯はみつからないという結論まで含めて)。
私につねにもっとも適切な命令を下す「私だけの神の声」を現代人は「ほんとうの自分」というふうに術語化しているわけである。
自己利益の追求とか自己実現とか自己決定とかいうのは、要するに「『ほんとうの私』という名の神」に盲目的に聴従せよと説く新手の宗教なのである。

「神々」の声 (内田樹の研究室)



参考:ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』


関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/06/08/214128
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/05/24/054856
http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20100531/1275299320