2015-01-01から1年間の記事一覧

ゲーテ

人間は、努力をする限り、迷うものだ。 『ファウスト』(第一部) 関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/06/09/001026

佐々木惣一

政治はもとより憲法に違反してはならぬ。しかも憲法に違反しないのみをもって、直ちに立憲だとはいえない。違憲ではないけれどもしかも非立憲だとすべき場合がある。立憲的政治家たらんとする者は、実にこの点を注意せねばならぬ。違憲とは憲法に違反するこ…

埴谷雄高

――《俺は何か悟ったような気になったぜ。ぷふい! ところでそれは、俺が怖ろしい疑問を見出し得たと云うのみに過ぎないのではないか。》 『不合理ゆえに吾信ず』 関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/2015/11/20/232510http://hideasasu.hatenablog…

小室直樹

こうして、終末論をふまえてキリスト教と仏教を比較してみると、とてつもないことに気づく。仏教では、衆生は天上、人間から、地獄に至るまで、六道をぐるぐるぐるぐる回っている。輪廻するというのは罪がある人に限って輪廻する。しかし大概の生き物は罪が…

ゴータマ・シッダールタ

1108 「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか? 何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」 1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである…

魚川祐司

偈(詩)の中でも彼の法は「貪欲に染まり、暗闇に覆われたものには見ることができない」と述べられているが、そのように盲目的に何かを欲望する傾向性をもつからこそ、人々は異性を求め、より豊かな暮らしを求める。そしてその希求が生殖と労働という人間の普…

小林秀雄

正常に考えれば、実行家というものは、みな懐疑派である。精神は、いつも未知な事物に衝突していて、既知の言葉を警戒しているからだ。先ず信ずるから疑う事が出来るのである。与えられた事物には、常に精神の法則を超える何ものかがある。実行という行為に…

パスカル

理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。 ―― 自然的な事物が理性を超えているならば、超自然的な事物については、なんと言ったらいいのだろう。 『パ…

永井均

「(…)争いごとにはなんでも勝ち負けっていうのがあるわけだけど、ここでねじれた関係が生まれることはよくあるんだ。たとえば争いごとを好む人と好まない人との間に生まれる、反目、敵対、つまり争いというのが考えられるね。これはいわば価値をめぐる争い…

中村圭志

宗教的次元を日常的次元から切り離す要素のひとつは功利性です。日常世界は利害関心、損得計算で成り立っている。通常の意識ではどうしてもここを乗り越えることができない。これを乗り越えさせてくれるものとして、日常生よりもいっそう高度な霊妙な働きが…

ジョルジォ・アガンベン

安全保障が国の政治学の中心的な概念となったのは最近のことではなく、近代国家の誕生の時期にまでさかのぼる。ホッブスがすでに、安全性の保障と恐怖を対立させ、人間が社会を構成するのは安全性を保障するためであると指摘していた。しかし安全保障につい…

宮沢賢治

序論 ……われらはいっしょにこれから何を論ずるか…… おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった 近代科学の実証と求道者たちの実験とわれ…

ドストエフスキー

ぼくに必要なのは安らかな境地なんだ。そうとも、人から邪魔されずにいられるためなら、ぼくはいますぐ全世界を一カペーカで売りとばしたっていいと思っている。世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか…

福田恆存

ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野にお…

ミシェル・ウエルベック

『O嬢の物語』にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それはすべてを反転させる思想なのです。わたしはこの考えをわたしと同じ宗教を信じる人たちに言ったことはあり…

デモクリトス

あらゆることに無知であってはならないというので、なにもかもすべて知ろうと望んではならない。 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(p.337)

正宗白鳥

どの方面においても真実に徹して知り尽くすことは人間の幸福であらうか。今日このさはやかな秋びよりに浸りながら快く生きてゐるのも、あすを知らないためであるともいはれよう。「明日の事を思ひわづらふなかれ。一日の苦労は一日にて足れり」*1といふ聖語…

アラン・グース

無から宇宙の出現を記述する試みは推測の域にとどまっている部分が大きいにしても、科学の領域を拡張する刺激的な営みだ。いつの日か、このプログラムを完了することができたら、宇宙の存在と歴史が、根本的な自然法則で説明できることになる。つまり、物理…

モリッシー

Shyness is nice andShyness can stop youFrom doing all the things in lifeYou'd like to The Smiths - Ask 参考:https://www.youtube.com/watch?v=zoo9Vu1a9bU

吉田兼好

友とするにわろきもの七つあり。一つには高くやんごとなき人、二つには若き人、三つには病なく身強き人、四つには酒を好む人、五つにはたけく勇める兵、六つには虚言する人、七つには欲深き人。よき友三つあり。一つには物くるる友、二つには医師、三つには…

僧璨

性に任ずれば道に合う、逍遥として悩を絶す、繋念は眞に乖く、昏沈は不好なり、不好なれば神を労す、何ぞ疎親することを用いん。一乗に趣かんと欲せば、六塵を惡むこと勿れ、六塵惡まざれば、還て正覚に同じ。 本来のことに任せてみれば道にかなうものである…

小林秀雄

「人間は苦悩を愛する」というドストエフスキイの愛好した言葉には、少しもひねくれた意味はない。ひたすら人間の内的なものの探究に力を傾けた人物の極めて直截な洞察が語られているだけだ。 「『悪霊』について」 関連:http://hideasasu.hatenablog.com/e…

竹内整一

浄土教も仏教である限り、最終的には、何の欲望・煩悩も兆さないという涅槃(ニルバーナ=火が吹き消えた状態)が目指されています。欲望・煩悩の火がメラメラと燃えているかぎり苦しみが引き起こされるから、それを吹き消すことによって、もう苦しまなくて…

本居宣長

まことには、わが身を安しとして、足事をしれるものはなきものなり、たとへば人の齡など、七十に及ぶは、まことにまれなる事なれば、七十までも長らへては、はやく足れりと思ふべきことなれども、人みな猶たれりとは思はず 『玉勝閒』 参照:https://twitter…

三宅陽一郎

AI

「人工知能」ほど、定義の曖昧な分野はありません。なぜなら、その定義は「知能とは何か?」という問いとまっすぐに結びついているからです。そして、その哲学的にも深い問いはいま、誰も明確に答えることはできません。 人工知能は、自分で問題を設定するこ…

老子

明道は昧(くら)きが若(ごと)く、進道は退くが若く、夷道は類なるが若し。上徳は谷の若く、広徳は足らざるが若く、健徳は怠るが若し。質真は変るが若く、大白は辱なるが若く、大方は隅無し。大器は晩成し、大音は希声、大象は形無しと。 『老子』(第四十…

司馬遼太郎

谷こそ古日本人にとってめでたき土地だった。丘(岡)などはネギか大根、せいぜい雑穀しか植えられない。江戸期のことばでも、碁の岡目八目とか岡場所(正規でない遊里)という場合の岡は、傍とか第二義的な土地という意味だった。村落も谷にできた。近世の…

ヘラクレイトス

われわれは、同じ川に踏み入れるとともに、踏み入れない。われわれは、あるとともにあらぬのだ。 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(p.238) 強調原文 関連:http://hideasasu.hatenablog.com/entry/20101230/1293698466http://hideasasu.hatenablog.com/…

山形浩生

ぼくは反知性主義というのは世界において普遍的なものだと思っている。そうした動きは、どんな宗教にも、いやどんな文化文明にも存在する。たとえば浄土宗や浄土真宗は、真言密教を筆頭に「中国でお勉強してきました」エリート仏教に対する一つの反動だ。こ…

エーリッヒ・フロム

人間と自由との根本的な関係について、とくに雄弁に語っているのは、人間の楽園追放という聖書の神話である。神話も人類の歴史のはじまりは、選択という行為にあるといっている。しかし、神話はこの最初の自由な行為が、どんなに罪深いものであり、またその…